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2007年10月05日

ムエタイについて

タイにおけるムエタイ

タイの地方では一般的なスポーツで、日本人の子供が剣道・柔道・空手に通うのと同じ感覚で地元の講師の元に通う。また祭りなどの際に、人集めの催し物として行われることが多い。年齢、体格が似たもの同士が相手として選ばれる傾向がある。

試合に対する賭けが頻繁に行われ、八百長試合も多いとされる。反面、利害関係の発生により八百長が少ないのではとの意見もある。実際に八百長を疑われる試合では観客からのブーイングにより試合が成立しないこともある。村の試合では、ときに日本の相撲の花相撲に演出が加えられた試合が行われることもある。

ムエタイのタイ国内での社会的ステータスは必ずしも高くない。これは競技が賭博の対象とされており、貧困層のスポーツと見なされているためである。実際にバンコクの二大殿堂では、スポーツとしてではなく賭けの対象として観戦している観衆が大半を占める。そのため富裕層は、日本の親が礼儀を学ばせるために子弟に武道を学ばせるようには、ムエタイを学ぶことは滅多にない。しかし富裕層が海外留学した際、タイ出身と自己紹介するとたいていムエタイ経験を問われ、タイの文化として海外では高く評価されている事実に驚き、帰国した際にムエタイを学ぶ学生も多い。講師も日本の武術と同じく、服従の対象である[要出典]。男性中心の競技で女性のプロ選手はまれだが、地方の人集めの試合なら女子児童・生徒の参加も比較的認められる。村対抗、学校対抗の試合は頻繁に行われ、賭けが少ない為、八百長が比較的少ない。さらに、国境の町などでも他国との親善試合がよく行われる。


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2007年09月19日

柔道

柔道(じゅうどう)は、明治15年に嘉納治五郎が創始した武道であり、格闘技、スポーツ、武術にも分類される。正式名称を日本伝講道館柔道という。[1]

「精力善用」「自他共栄」を基本理念とし、「柔能く剛を制し、剛能く柔を断つ」を真髄とする。単なる勝利至上主義ではなく、精神鍛錬を目的としている。

学校教育において1898年に旧制中学校の課外授業に柔術が導入された際、柔道も、必修の正課になった。連合国軍最高司令官総司令部により学校で柔道の教授が禁止された以降武道は禁止されたが、昭和25年(1950年)に文部省の新制中学校の選択教材に柔道が選ばれた。昭和28年(1958年)の中学学習指導要領で、相撲、剣道、柔道などの武道が格技という名称で正課授業が行われた。平成元年(1989年)の新学習指導要領で格技から武道に名称がもどされた。ほとんどの学校が柔道場を有する。剣道や空手道と並び、日本でもっとも広く行われている武道の一つ。

競技も行われており国際競技団体は国際柔道連盟、日本の国内競技団体は全日本柔道連盟である。

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2007年08月08日

燃える闘魂 アントニオ猪木

やはり最高の格闘家といったらアントニオ猪木以外にいないでしょう。強さ、存在感然り、パフォーマンス然り、プロとしてのカリスマ性は他に類をみないと私は思っております。

そんな猪木のプロフィールを今日は紹介したいと思います。

アントニオ猪木(アントニオいのき、英語表記:Antonio-Inoki、1943年2月20日 - )は、神奈川県横浜市鶴見区出身の元プロレスラー、元参議院議員。本名は猪木 寛至(いのき かんじ)。血液型AB型。公称身長190cm~191cm、公称体重102kg~112kg。身長に関しては、元新日本プロレスリングレフェリー・ミスター高橋の著書によると実寸身長は公称身長より5~6cm程度低いとのことであり、185cm位であると思われる。新日本プロレス創始者で元オーナー。愛称は「アントン」。今日の日本のプロレス・格闘技の歴史を語る上で(猪木自身は、プロレスと格闘技を区別することを嫌っているが)、力道山、ジャイアント馬場と並んで欠く事の出来ない存在であり、多くの世界のプロレスラー・格闘家に影響を与えている存在である。1995年には北朝鮮で、スポーツと平和の祭典を開催している。この大会では2日間で38万人の観客を動員した。

■プロフィール
横浜の石炭問屋を営む裕福な一家に生まれる。猪木5歳の時に父親は死去。戦後、エネルギー源が石炭から石油に変わったこともあって実家の石炭問屋は倒産し、14歳の時に母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ渡り(長兄は同行せず。祖父は渡航中に毒性のあるまだ青いバナナを食べて死去)、サンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごす。

ブラジルへ移住した最初の1年半は、農場であまりにも過酷な労働を強いられた。コーヒー豆などを収穫する作業が中心だったが、作業のたびに手の皮がずる剥けになり血まみれになっていたという。1年半の契約だったため逃げることはできなかった。他の農場の脱走した者たちの中には牧場主に射殺された者もいたという。 あまりにも過酷なため、作業が終わり与えられた電気も通っていない小屋に戻り着替えるためにTシャツを脱ぐと、Tシャツに染みこんだ汗の塩分のため、Tシャツが固まって立ったほどだったという。 猪木の精神力はこのブラジルでの生活で強く培われたと言える。その後、現地の砲丸投げ大会に出場、優勝した際、たまたまブラジル遠征に来ていた力道山の目に留まる。これが猪木の人生を大きく変えた運命的な出会いとなる。この時、力道山に「日本に行くぞ」とスカウトされてプロレス界入りした。猪木はこの出会いを振り返り、”本当に自分は運がいい”と今でも語っている。

リングネームは、先輩レスラー豊登道春による命名である。当時の名レスラー、アントニオ・ロッカにあやかって名付けられたという説が一般的であるが、単にブラジル帰りを強調するため洋風な名前にされたということらしい(本人曰く「アントニオという名前は日本で鈴木や佐藤という名前が多いようにブラジルではありふれた名前」とのことであるが、実は苗字ではなくファーストネームであり日本でいえばひろしやたけし)。まだリングネームが決まる前に出演したテレビドラマ『チャンピオン太』での役名「死神酋長」を気に入った力道山によりその名をつけられそうになったが、猪木自身はそれが気に入らず、その名前を付けるのであればやめるとまで言ったとの逸話もある。

また力道山は猪木を日系ブラジル人として売り出そうとしていた。これは南米での興行を成功させる布石でもあり、弟子入りのために帰国した際には「日本語は話せますか?」と記者に問われた。その記事を見た横浜在住時の猪木の幼馴染が日本プロレスの道場を訪ね、「お前は横浜にいた猪木だろ?」と質問したが、猪木は「違う」と貫き通した。猪木自身が「横浜生まれ」だということを公にしたのは力道山が亡くなった後である。

キャッチフレーズは「燃える闘魂」、これは当時テレビ朝日プロレス中継アナウンサーの舟橋慶一の命名である。初めてのアメリカ武者修行時代のリングネームは「リトル・トーキョー・トム」(ロサンゼルスにある日本人街と同名)。

得意技は卍固め、コブラツイスト、延髄斬り、選手としての晩年ではスリーパーホールドを多用した(一般に“チョークスリーパー”と呼ばれているが、プロレスではチョーク攻撃は禁止されており、これは実況アナウンサー辻よしなりの完全な誤認であると、解説(当時)のマサ斉藤も言っている)。「イノキボンバイエ」のフレーズを持つ入場曲『炎のファイター』は、元々モハメド・アリの伝記映画『アリ・ザ・グレイテスト』の曲であったが、猪木と対戦したアリが、猪木に贈りアレンジしたものとされる(真相は猪木のマネージャー新間寿がアリ側にお願いして無理矢理そういうことにしてもらった)。ちなみに「ボンバイエ」とは、「Boma ye(ボマ・イェ)」(リンガラ語:彼を殺せ!)が訛ったもの。アリがコンゴの首都キンシャサでジョージ・フォアマンと戦った際の声援が由来とされている。

最近はあまりメディアに登場しなくて残念ですが、私の猪木愛は変わりません。
さぁみんなで叫びましょう「1、2、3、ダー!」